ありったけの愛を叫べ

思ったことを書きます。正確でないものを含みます。極力良く言えば素が色濃くでます。

動きというものはすごいんだよ!

自分の記憶の仕方の違いだと言われればそこで話は終わりだし。個人差があるゆえに人の意見に対して論議をしたり批判をするつもりもないので、この話はここで語って終わり。でも少しでも自分の言いたいことを書き出せたらな、と思う。

 

『動き』とは反対にあるものとしてわかりやすいのが写真。写真というのは静止画であって、その瞬間を切り取ったものが出来上がる。事実としてときが流れればそれは過去の記録となる。それを時間がたてば『色あせていくもの』として捉えるかは人それぞれだが。

(写真には写真のいいところがある。だが写真を引き合いにだしてしまった以上、写真が好きな人や写真家には批判に聞こえるだろうがそういう意図はまったくない。動きのあるものとの比較としてあげるだけのつもり。)

 

自分の記憶に残るものはほとんどが動きのあるものだと思う。暗闇で知り合いの顔や風体をみたところで全然相手がわからなかったりする。だけどその人の歩き方のシルエットで9割ぐらいの確信を持てたりする。

自分が『懐かしい』と思うものは仕草や所作や動作だったりする。「こういうふうに扱われるの懐かしいな」とか「たぶん自分が見たのは別人だけど、その仕草懐かしい」とか「親も似たようなことしてたな、今ならあの行動の意味がわかる」など。

 

例えば数年前に自分がみた、きれいな桜並木の写真をみたとする。もう一度見に行きたいなと思い、桜の季節にそこに行ったとする。だが桜並木の直前で耳栓と目隠しをして、ほんの一瞬だけ目隠しを取る。果たしてそれに自分は『懐かしい』という気持ちを抱けるのかという疑問。

『音』、桜の花びらが散る『動き』、自分がそこを『歩いて通った』景色の記憶。それが『懐かしい』なのかなと思う。

 

先に少し出したが、音というのは連続したものとして捉えることがほとんどだと思う。これも一種の『動き』だ。

「このBGMどこかで聞いたことある」「この効果音なんのゲームのだっけ?」「この声どっかで聞いたことある」「この曲なんだっけ?」

こういった疑問は結構頻繁に起こる。自分は「なんかみたことある」というのが比較的少ない。

 

(ロジックも何もなく自分の思うことA,B,Cみたいに並べて「はい結論はこれ」という論理を組み上げられるほど労力を入れて書いた記事じゃないけれど。)

連続的な動作や刺激というのは記憶に残りやすくて懐かしいと感じやすいのじゃないかなって話。