ありったけの愛を叫べ

思ったことを書きます。正確でないものを含みます。極力良く言えば素が色濃くでます。

『好きと嫌い』の尺度

文章もなにもない。意識の流れをベタ打ちした感じです。

 

何度考えても『好きと嫌い』をスカラーで考えると矛盾することが多すぎる。

好きと嫌いはそれぞれ違う次元が故に『好きと嫌い』を測るなら最低でも二次元ベクトルである必要がある気がする。折りたたみに折りたたんで二次元ベクトル。

「好き。好きは好き。大好きすぎておかしくなりそう。」と一瞬思うことって結構あると思うんですよ。もちろんすぐに自制が働いておかしくなんかならないんですけど。

でもだからといって「でも嫌い。やっぱり嫌い。ふとした言動が嫌い。」みたいな些細そうなものでも嫌いと思うことってやっぱりあります。

だからといって『好き』の値が急に反転して『嫌い』になったわけではなく、好きであり同時に嫌いでもある。これどう考えても二つの全く違う値ですね。

 

それでも話を簡略化するために『好き』か『嫌い』にでばっさり分けたがることが多い。ではこれはベクトルがどこを向いていれば『好き』と『嫌い』なのか。

『好き』が『嫌い』よりも少しでも大きければ好きなのか。それでも好きな部分だけ見ていられれば『好き』なのか。

 

おそらくある程度の閾値を超えたら『好き』や『嫌い』のカテゴリに入り始めるのだとおもう。そもそも興味もない、または知らないものに対しては(0,0)だろう。

 

『明らかに好き』にカテゴライズする場合、『嫌い』の値はおそらく小さいだろう。『嫌い』の値が『好き』に対して大きすぎれば『明らかに好き』ではないだろう。『明らかに嫌い』も然り。

 

では微妙なラインのものはどうだろう。そもそも『好き』<『嫌い』なら『嫌い』というのも成り立たない気もする。自分を例にあげるわけではないが、例えば家族などの切っても切れない人たちとの関係はこういう不等式なこともあるのではないだろうか。

 

 

まとめ:

  • 好きと嫌いはベクトルで考える。
  • カテゴリとしての好きと嫌いはあるのかもしれない。
  • 閾値を超えなければ無関心。
  • 好きと嫌いのカテゴリは線が引けるほどわかりやすいものではない。
  • 好きが嫌い(値)より低くても嫌い(カテゴリ)ではない。逆も。

やっぱり好きと嫌いではなくもっと違う言葉で表せる、私はどっちにでも転べますよ、みたいなカテゴリが必要なのでは。